いい匂いなのにね。子どもの一言が変えた、くさや屋三十年の仕事|八丈島・長田商店
北海道で水産技術者として11年を過ごし、1996年に八丈島へ戻った長田隆弘さん。家業のくさや製造を継いで、およそ30年になります。島のくさやの生産額は、かつての十分の一ほどになりました。それでも続け、次の世代へつなごうとしている理由を伺いました。
まず、1996年に八丈島へ戻られた経緯を教えてください。
きっかけは一つではなく、三つのことが重なったという感覚です。
一つ目は、北海道でやるべきことをやれた、という思いです。そもそも北海道の就職は、大学の先生に五分で決めろと言われて決めた就職先でした。ただ、行ってからはうまくいきませんでした。一年目に、育てていたアワビのうち30万個を死なせてしまったんです。大失敗でした。当時23歳の若造でしたから、あなたたちはうまくいかなかったかもしれないけれど、これからうまくいくかもしれないじゃないですか、と道栽培センターの部長に食ってかかったりもしていました。そこから認められるまでにいろいろあって、七年目にようやくアワビの生産量が道内で一位になりました。余剰海水を利用しクロソイ飼育をはじめるも大時化で全滅。道内で活躍する同じ世代の水産技術者みなさんに、魚の飼育方法を教えてくださいと頭を下げてお願いして、交流がやっと広がってきた。それが北海道に行って8年目のことでした。11年目の秋には、施設に道内の魚類水産技術者が集り勉強会を開催しました。私が八丈島に帰るという話になったとき、その仲間たちが道庁の水産部長に声をかけてくれて、五年後に50億円の栽培センターができるから残りなさい、と言っていただいた。そうやって引き留めてもらえたことが、私にとっては、北海道に恩を返せたという実感になったんです。
二つ目は、実家の事情でした。私は長田家の長男で、父も長男です。私たちの世代には、子どもの頃から長男が家を継ぐんだという暗黙の了解のようなものがありました。そして三つ目が、子どもたちのタイミングです。ちょうど下の子がお腹にいて、長男が小学校に入る年でした。この三つが重なって、そろそろ八丈に戻ってもいいのかな、と思うようになりました。
お父様には、どのように伝えられたのでしょうか?
父は19トンの船を持つ漁師で、そちらがメインでした。私が高校二年生のときに、くさや屋との兼業になったんです。正直に言うと、私は漁師になることに抵抗がありました。子どもの頃から働く方々の姿を見ていて、自分には難しいなと感じていたところがあります。兼業で始めたくさや屋のほうを継ぐわけですから、親に対して引け目のようなものはあったかもしれません。
両親がどれだけ喜んでいたかは、正直なところ分かりません。帰ってくるものだと思っていたのではないでしょうか。私のほうは、やりたいことを北海道で達成できたという実感がありましたから、そこからの人生は家族のほうに舵を切ってもいいのかな、と感じていました。
ホームページを始められたきっかけについて伺えますか?
娘が川崎病にかかったことが最初です。当時の八丈島は医療の体制がまだ整っていなくて、必要な薬が島になかったんですね。
先生から、飛行機の最終便に赤十字の方が間に合えば点滴が打てる、という言い方をされたとき、正直、絶望感のほうが大きかったんです。地続きなら夜でも車で行ける。けれど島は、最終便がだめなら翌朝の一便になってしまう。
当時はダイヤル回線の時代でしたが、情報を探していたら、川崎病について自分のお子さんのことを発信しているお父さんお母さんが結構いらっしゃいました。私がメールを送ると、向こうからも私たちはこうだったよ、と返ってくる。共有できている感覚がありました。娘が後遺症もなく退院できたことを書いておけば、誰かが見て参考にしてくれるかもしれない。それがホームページの最初のきっかけです。
そこから、販売のサイトへ広がっていったのですね。
きっかけは、まったく別のところにありました。妻が北海道の出身なので、義理の母にパッションフルーツを贈りたかったのですが、八丈島の収穫時期は終わっていました。
ネットで探したら奄美大島で販売している方がいて、そこで買いました。そのとき、うちのホームページも見てください、と一行だけ書き添えたんです。
そうしたら、その方がとても真面目な方で。とてもいいホームページですね、と言ってくださって、そこから販売サイト運営のイロハを教えてくださいました。ものを売るにはこういう法律があるからこれを表示してください、画像はこうするともっときれいになりますよ、と。後から知ったのですが、ECサイトの審査員も務める方でした。
その方が言ってくださったのが、長田さん、今のスタイルをそのまま続けてください、ということでした。販売のほうに傾けるのではなく、家族のホームページを続けてください、と。ですから今でも家族のホームページをずっと続けています。販売に特化していたら、きっと埋もれてしまっていたと思います。
当時の組合長さんとは、どのような関係だったのでしょうか?
そのホームページを見てくれたのが、当時の水産加工組合の組合長でした。実はその方、私の父からくさやづくりを学んだ経緯があるんです。父の二従兄弟にあたる、遠い親戚のような間柄でもありました。
もともと漁協の職員からくさや屋に転じた方で、何軒か加工場を回って学んだうちの一軒が、うちだったらしいんですね。ですから私が帰ってきたときには、俺が教えてやるから、と。朝五時ごろからもう来ているんですよ。缶コーヒー片手に、半分二日酔いで。まだやってんのか、と言いながら缶コーヒーを飲んでいる。そんな付き合いでした。
ただ、父がその場を離れると、必ず私に指導してくれるんです。ここはこうしたほうがいい、と。父の前では言いにくいこともあったのでしょうね。父の技術が組合長に渡り、組合長がアレンジを加えて、それが私のところへ戻ってくる。そして私がまた、そこにアレンジを加えていく。
その組合長から言われたことがあります。「お前のホームページは家族のホームページだ。で、お前は家族のために働くみたいだけれども、俺は仕事のために働くんだ」と。当時の私は家族のために帰ってきたつもりでしたし、仕事はもうやりきった感がありましたから、そのときはぴんと来ていませんでした。
島のくさやづくりは、いまどのような状況にあるのでしょうか?
帰ってきてから十年ほどは、営業がいらなかったんです。当時はくさやの消費量が今よりずっと多かったですから。うちは鮮魚が命で、「港から38秒」というのが売りです。魚を開いていると注文の電話が鳴る。手を止めて出ようとすると、父が怒るんですよ。鮮度の良い魚を、美味しく手早く作れば、お客さんは黙っていても来るから、まず製造しろ、と。
今はまるきり変わりました。売れなくなったこともありますが、それ以上に原料が獲れなくなっています。八丈島では、春はトビウオ、8月1日からはムロアジと、一年を通して新鮮な魚をくさやにしてきました。私の子どもの頃は、トビウオを追いかける船が60隻以上ありました。それが今は、トビウオもムロアジも一隻ずつです。六年前にほとんど獲れなくなって両方とも止めたいという話になり、今は東京都の委託調査という形で一隻ずつ出ている。
八丈町のくさやの生産額は、私の知る限り4億円を超えていた時期があります。それが今は10分の1ほどです。原料がないから製造できない、製造できないから販売できない、そうするとお客さんが離れていく。原料が戻ってきたときに、離れたお客さんがどれだけ戻ってきてくださるかというと、なかなか難しい。その連鎖が始まっているところです。
近隣の島との連携も始められたと伺いました。
このままではいけないと思い、新島の加工組合長に連絡を取りました。
新島の組合長もちょうど代わったばかりのころで、長田さん、実は自分が組合長になったとき八丈島に行きたかったんだ、と。でも私のほうが先に行ってしまったから、来てくれてありがとう、と言ってくださった。そのときに、思いは一緒なんだな、と感じました。
父の世代は、あまり他の島との関わりを持たなかったんです。新島は新島の文化、八丈島は八丈島の文化があって、横のつながりはあまりありませんでした。今年の1月末に一度伺って、先週はうちのメンバーも連れて行きました。11月には今度、八丈島に来る予定になっています。伊豆諸島は航路が北部と南部で分かれていますが、週に一回でも全部の島をつなげてもらえたら、魚の輸送も人の移動も便利になるよね、という話も出ました。お互いが行き来したからこそ生まれた話だと思っています。
島のために動くようになったのは、どのようなきっかけからでしょうか?
最初は北海道です。私がいつも思っていたのは、自分の施設だけを儲けようとするのではなく、自分の育てたアワビを海に放流し、漁師さんがそれを漁獲しお金にしうるおうことが自分のゴールでした。父が漁師だったことも大きかったと思います。その思いを強くしたのが、魚類の技術を学びに行ったときのことです。最初はなかなかいい顔をされませんでした。でも、自分は施設のためではなく漁師のために頑張っているんだ、という話をしたら、変わったんです。目先の損得よりも、その先にあるものをちゃんとしたほうがいい。そこで最初に学びました。
八丈島に戻ってきて、くさやの液をよくかき混ぜるという話を聞いて、なぜかと尋ねたら、20数軒すべてが同じことを言うんです。美味しくなるから、と。技術者としては、そこで止まっているのはもったいないなと思いました。それで「くさやのあいうえお」という冊子をつくって配りました。一冊目がくさや液、二冊目が冷凍技術、三冊目がくさやの栄養についてです。最初は、お前より俺のほうが詳しい、と言われました。それが三冊目のころには、保存するときにどうすればもっと美味しくできるか、と具体的に相談されるようになりました。
そこから島おこしの活動にも関わるようになり、島の人のためにというのが当たり前になっていきました。その後、島の処分場をめぐる問題が起きたときにも声をかけていただいて、署名の連名に加わりました。そこで学んだのは、自分が正しいと思うことを言うだけでは物事はなかなか変わらない、ということでした。東京に出て国会議員の方や省庁にも足を運びましたが、それでも動かなかった。商売のほうにも影響があって、売上が四割ほど落ちた時期もあります。
ただ、その経験があるからこそ、同じことを次の世代に繰り返してほしくないな、と思うんです。物事が決まる前の段階から行政と住民がきちんと相談していけば、違う形になったのではないか。そういう話を、見学に来てくださった方にお伝えしている。それが今の、島のために、というところにつながってきているのかなと感じています。
子どもたちとの関わりについても教えてください。
22年前のことです。小学2年生だった娘の学年が見学に来てくれたとき、一人だけ来られなかった男の子がいて、日曜日に行ってもいいですかと電話がありました。おいで、と声をかけ、説明をしました。
そのとき、加工場の玄関を若い女性二人が開けて、「くさい!」と、ばしんと閉めて帰ったんです。それを見たその子が、私の顔を見て、「いい匂いなのにね」と言いました。
その一言のおかげで、私はくさやの製造に誇りを持つことができました。食文化を守るというのは、とてもすごいことなんだ、と。最初の十年は黙っていても売れていたので、ものを売る努力は何もしていませんでした。売れなくなった今になって振り返ると、22年前のあの一言が、この仕事を支える自信になっていたのだと思います。島のためにという気持ちも大きいのですが、それよりも、あの子のたった一言のほうが、実は大きな転機になっています。
中学校の製造体験で三日間作り方を教えた子は、長田さんに学んだのは人と人とのつながりを大事にすることだ、と書いていました。私は一言もそんなことを言っていないんです。それでも子どもたちはそう感じてくれた。自分の体験を伝えることで、何かを受け取ってくれるのだと分かりました。
以前、テレビの取材で、タレントの方がくさや液のところで、臭い、と話したことがありました。それを見た子どもたちが、長田さんに失礼だ、と言ってくれたんです。そのとき、教育というのはこういうことなんだ、と思いました。その子たちは、長田さんの悩みは何だろうと一生懸命に学んでくれている。だからテレビに出るにしても、その子たちが納得できるような形の自分でなければいけないな、と。それ以来、子供達のくさやへの想いをきちんとお話しするようにしています。
30年を経て、次の世代へつなぐことをどのようにお考えですか?
30年経っても、技術的にはまだまだ未熟だと思っています。ただ、ふと周りを見たら、周りがいなくなっていた、というのが正直なところです。上の方々が亡くなっていって、そこを継ぐ方がいらっしゃらなかった。八丈島に5軒ある加工場のうち、くさや専業で食べているのは、私と先輩の2軒だけです。
先週、大島や新島に伺って感じたのは、あちらのくさや屋さんは300年、400年という歴史を背負っていらっしゃるということでした。なぜ大学生や子どもたちにそこまでするのか、と聞かれたとき、私には歴史も何もないから、老舗を背負うものもないし、捨てるものも飾るものもない。だから動きやすいのかもしれません、とお答えしました。
今、地元の小学生が「くさやプロジェクト」というのを去年からやってくれています。保育園児と小学生全員にくさやを食べてほしい、と。終わったあとに先生が、年長さんは食べる子と食べない子に分かれたけれど、年中さんは出されたらバクバク食べていた、と教えてくれました。明治大学の先生にその話をしたら、「人の味覚とは不思議なもので、一度食べつけると、それが刷り込まれてしまいます。とくに幼少期にその影響が強く、一般に2〜3歳までといわれています」と教えていただいた。昔は大人がくさやを焼いてくれていたから、島の子どもたちも当たり前に食べられた。これからもくさやを食べるきっかけがつくれれば、また戻ってくるのではないかと思っています。
東京の子どもたちにも同じことが言えます。私たちの上の世代は、黙っていてもくさやを買ってくれた世代です。その方々が亡くなり、私たちの世代は父母が食べていたからという世代で、その下がすっぽり空いてしまっている。そして、その空いた世代が今、お子さんを育てているんです。だから先生方が教えて、子どもたちが学び、子どもたちから親に伝わっていく。そこを今、取り組んでいるところです。
最後に一つ。あの組合長の、「俺は仕事のために働くんだ」という言葉です。当時の私は家族のために帰ってきて、組合長は仕事のために頑張っているんだ、と思っていました。でも今になって考えると、両方とも次の世代のために、というゴールは同じだったのだと思うんです。
孫もできました。子どもたちや孫がこの仕事をやったときにどうなっているだろうと考えると、今のうちに道筋をつくっておかなければいけない。だから新島でも、みんなで連携してやりませんか、と熱く話してきました。そろそろ次のことを、というのは、まさにそこの部分だと思っています。
最後に、家業を継ぐかどうか迷っている方へ、お伝えしたいことはありますか?
無理をすることはない、というのが私の考えです。どうしても継がなければいけない、という時代ではありませんし、私も子どもたちにはそう言っています。
ただ、やらずに終えるのであれば、やってから決めてほしいな、とは思います。継ぐ気はないけれど、とりあえず少し手伝ってみようかな、くらいでもいいんです。
実は、私自身の体験があるからです。大学時代、夏休みは夜中の二時ごろから製造を手伝っていました。お酒を飲んで帰ってきて手伝っていた当時のくさやづくりと、子どもたちを連れて島に帰ってきてからのくさやづくりは、作り方はまったく同じなのに、まるで違うんです。心持ちも、込める想いも違ってくる。
ですから、一度外に出て社会人になって、それから帰ってきて試してみるのはありではないでしょうか。嫌なら向いていないということでしょうし、合わなければ辞めればいい。でも、もし私のように、子どもから、「いい匂いなのにね」、なんていう一言がもらえたら、もうやめられなくなります。そういう誇りは、きっと少しずつ自分のなかで育っていくものなのだと思います。
長田 隆弘 Osada Takahiro
東京都八丈島でくさやの製造・販売を営む長田商店の二代目。東海大学海洋学部でアワビやウニの生態を学び、卒業後は北海道で水産技術者として11年間、アワビの越冬飼育やクロソイ・クロガシラガレイ等の種苗生産に従事。無加温でのアワビ越冬飼育に取り組み、7年目に道内生産量一位を記録した。1996年に八丈島へ戻り、父が兼業で始めたくさや製造を継ぐ。北海道で学んだ水産技術をもとに冊子「くさやのあいうえお」を作成して島内の加工場に配布したほか、家族の記録として始めたホームページを通じて2003年ごろからネット販売を開始。小中学校への出張授業や工場見学の受け入れ、島内外での食育活動、近隣の島の同業者との連携にも取り組んでいる。