先代が描いたキャンバスに、自分の色を加える。事業承継と事業譲渡のリアル|ヤスカワ
1960年、包装資材の販売から始まった株式会社ヤスカワ。創業者である父の背中を見ながら育ち、大学卒業後は一部上場企業で修業を積んだのち、1984年に家業へ入社した安川政壱さん。2000年に代表取締役へ就任して以降、包装・物流関連事業を軸にしながら、自身の経験を活かしたゴルフ・スポーツ関連事業やビジネスサポート領域へと事業を広げてきました。今回は、家業を継ぐまでの歩み、先代との葛藤、事業譲渡の経験、そして後継者に伝えたい意思決定の大切さについて伺いました。
株式会社ヤスカワの事業内容について教えてください。
株式会社ヤスカワは、もともと包装資材の販売から始まった会社です。父が創業した当時は、今のように段ボールやテープ、緩衝材が当たり前にある時代ではありませんでした。木箱や紐、紙などを使って物を包み、運ぶ時代だったんです。
そこから時代の変化に合わせて、段ボール、テープ、緩衝材、プラスチックコンテナ、パレット、台車、棚、コンベヤーなど、物流や保管に関わる商品へと取り扱いが広がっていきました。
現在は、包装・物流システム関連の商社としての事業に加えて、ビジネスサポートツールの販売、ゴルフ・スポーツ関連用品の販売、ゴルフネット工事、イベント企画、インドアゴルフスタジオの運営、ゴルフ会員権やゴルフ場関連の事業なども展開しています。

幼い頃から家業には関わっていたのでしょうか。
うちは事務所の上に住んでいたので、家業はとても身近な存在でした。高校生の頃から、休みの日には自然と会社の手伝いをしていました。
当時はパソコンもありませんから、伝票整理やハンコ押しといった仕事も多かったです。免許を取ってからは、配達も手伝っていました。人手が足りないと、母から「明日学校行くの?」と聞かれて、学校ではなく配達に行くこともありました。
友人からは「普通は学校をサボるなと言われるのに、お前の家は学校に行かせてくれないんだな」と言われるくらいでした。ただ、そうした経験があったからこそ、名刺交換や電話応対、取引先との接し方など、社会人として必要な基本は自然と身についていたと思います。
ゴルフ事業はどのように始まったのでしょうか。
きっかけは、父が付き合いでゴルフを始めたことでした。練習場に一人で行くのが嫌だったのか、「お前も一緒に来い」と言われて、私もゴルフを始めました。
高校に入ると、たまたまゴルフ部に誘われました。周りにはジュニアチャンピオンや練習場の息子など、ものすごく上手い人たちがいて、最初は驚きましたね。
その頃、家に出入りしていた紐屋さんが「紐は薄利多売で儲からないから、これからはスポーツ用のネットを扱う」と言い出したんです。当時はスポーツ用ネットを専門に扱う会社が少なく、ゴルフネットというものも珍しかった。
それを友人に話したところ、「家の庭にゴルフ練習用のネットを張りたい」という話になり、実際に施工しました。すると隣の家からも「うちにも張ってほしい」と声がかかる。ちょうど第一次ゴルフブームで、練習場も混雑していた時代でした。そこから、ゴルフネットの販売や施工が少しずつ広がっていきました。
さらに大学時代には、新宿の百貨店のゴルフ売り場に通う中で売り場の方と仲良くなり、人工芝の販売にも関わるようになりました。当時は後楽園球場が人工芝になった頃で、人工芝そのものがとても珍しかったんです。ベランダに人工芝を敷くことも流行り始めていて、百貨店でもよく売れました。
今振り返ると、自分の好きだったゴルフと、会社が扱っていた資材やネットの事業が自然につながっていったのだと思います。

大学卒業後、すぐに家業へ入らず、一部上場企業で働かれた理由を教えてください。
父としては、いずれ家業を継ぐにしても、一度は外の会社で修業させたいという考えがあったのだと思います。そこで、取引のあった日東電工株式会社に入社しました。
私自身にとっても、とても良い経験でした。ヤスカワは商社・代理店の立場ですが、日東電工はメーカーです。メーカーの中に入ることで、メーカーがどのように商品をつくり、販売し、代理店と付き合っているのかを学ぶことができました。
勤務地は福岡で、九州全域を担当していました。もともと東京以外で働いてみたいと思っていたので、九州勤務は結果的にとてもよかったです。大きな拠点では担当領域が細かく分かれますが、地方の支店では幅広く何でもやらなければなりません。いろいろな商品を扱い、いろいろな地域へ行き、多くの経験を積むことができました。
1984年に家業へ戻られた背景を教えてください。
もともと3年ほど外で修業するという約束でした。ちょうどその頃、会社も新宿から中野へ移転し、新しくビルを建てるタイミングでした。会社としても変化の時期であり、戻るにはちょうどよいタイミングだったのだと思います。
家業に戻ってからは、営業も配送も、必要なことは何でもやりました。後継者だからといって特別扱いされるのではなく、現場を知ることが大切でした。
2000年に代表取締役へ就任された時のことを教えてください。
2000年は、会社にとって創業40周年の節目でした。私自身もちょうど40歳で、父も70歳を超えていました。社内的にも対外的にも、次の社長は私だということは分かっていたので、40周年というタイミングで交代するのが自然だったのだと思います。
ただ、社長になったからといって、最初からすべてが大きく変わったわけではありません。父は会長として会社に残っていましたし、私も最初の数か月は父の考えを尊重しながらやっていました。
しかし、次第に社員が混乱する場面が出てきました。朝、私が「こうしよう」と決めたことを、夕方に会長が戻ってきて「いや、こうしろ」と違う指示を出す。すると社員は「どちらの指示を聞けばいいのですか」となってしまうわけです。
その混乱には、どのように向き合われたのでしょうか。
半年ほど経った頃、私は父に退職届を出しました。
「まだ自分でやりたいなら、社長に戻ってくれ。私は辞める。ただし、ゴルフ事業だけは自分に譲ってほしい」と伝えました。
そこまで言ったことで、父も本気で受け止めてくれたのだと思います。社長を退いて半年経つと、もう一度社長業をやるのも大変です。それ以降、父が現場に口を出すことは少なくなりました。
二代目、三代目の経営者と話す時にこの話をすると、「そこまでやったんですか」と驚かれることがあります。でも、どこかで覚悟を見せないと、組織は変わらない。社長が誰なのかを曖昧にしたままでは、社員も迷ってしまいます。
先代から受け継いだ中で、守りたいと思ったものはありますか。
うちには「三K」という考え方がありました。一般的に言われる「きつい・汚い・危険」の3Kではありません。
ヤスカワの三Kは、「健康であれ、謙虚であれ、常に倹約せよ」というものです。
この考え方は、先代から受け継いだ大切な価値観として、今でも守るべきものだと思っています。事業の形は変わっても、人として、会社として大切にすべき姿勢は変えてはいけない部分です。
一方で、後継者として変えなければならないと感じたことはありますか。
後継者というのは、創業者とはまったく違います。
創業者は、真っ白なキャンバスに自分で絵を描いていくことができます。失敗しても、「自分が描いた絵だから仕方ない」と思える部分がある。
でも二代目や三代目は、すでにある程度絵が描かれたキャンバスを受け取るところから始まります。「なぜここにこの色を塗ったのか」「なぜこの形になっているのか」と思うこともある。薄い色なら塗り直せるかもしれませんが、濃い色は簡単には変えられません。
だからこそ、後継者は先代が描いた絵を否定するのではなく、そこに自分なりの色を加えていく必要があります。すべてを変えるのではなく、何を残し、何を変えるのか。その判断が大切だと思います。
事業譲渡も経験されています。どのような背景があったのでしょうか。
もともとヤスカワは、包装や物流関連の事業を中心にしていました。そこに私がゴルフ事業やビジネスサポートの領域を加えていきました。
ただ、包装や物流関連の商品は、どうしても薄利多売になりやすい。大量に仕入れられる会社ほど安く売ることができるので、価格競争では勝ちにくい部分があります。
そんな中で、父の体調が悪くなりました。母は先に亡くなっていたため、父が見てくれていた銀行関係や会社の細かなことも、私が担う必要が出てきました。会社のこと、父のこと、自分が進めたい事業。すべてを抱える中で、自分の時間が本当に取れなくなっていきました。
そこで、以前から考えていた事業譲渡を実行しました。最終的にある会社へ事業を譲渡し、当時ヤスカワにいた十数名の社員も譲渡先へ移りました。
ただ、その後すべてが順調に進んだわけではありません。譲渡先の会社でトラブルが起き、結果的にその会社は継続が難しくなりました。事業譲渡は、決断して終わりではありません。譲渡後に何が起こるかまで含めて、本当に難しい判断だったと感じています。
事業承継と事業譲渡の両方を経験して、大切にしている判断基準はありますか。
大切にしているのは、「鵜呑みにしないこと」です。
鵜飼いでは、鵜が鮎を飲み込まないように首のところを結んでいますよね。私はそれを例にして、「人の話も、そのまま鵜呑みにしてはいけない」と考えています。
経営判断も同じです。人から言われたことをそのまま受け入れるのではなく、自分の中で考え、納得し、腹に落とすことが大切です。
人間は、腹に落ちると強い。迷っている時はなかなか動けませんが、「よし、やろう」と決めた瞬間に動けるようになります。逆に、腹に落ちていないことを無理にやってはいけないと思っています。
これから家業を継ぐか悩んでいる後継者へ、伝えたいことはありますか。
私がよく言うのは、「成功の反対は失敗ではなく、何もしないこと」だということです。
失敗は成功のもとと言いますよね。失敗したとしても、そこから学び、次に進むことができます。でも、何もしなければ何も起きません。
宝くじも同じです。一枚でも買えば当たる可能性があります。でも、買わなければ絶対に当たりません。事業も経営も、それと同じだと思います。
だから、継ぐなら継ぐ。継がないなら継がない。どちらでもいいから、自分で決めることが大切です。
営業でも同じで、案件を丸かバツかにできる人は強い。価格で負けたならバツ。用途が変わったならバツ。バツにできれば次に進めます。一番よくないのは、三角のままずっと抱え続けることです。
事業承継も同じです。やるのか、やらないのか。まずは自分で決める。その一歩を踏み出すことが、何より大切だと思います。
安川社長にとって、事業承継とは何ですか。
事業承継とは、ただ会社を引き継ぐことではありません。
先代が描いたキャンバスを受け取り、そこに自分の色を加えていくことだと思います。すでに描かれた絵をすべて消すことはできません。消してはいけないものもある。けれど、そのまま眺めているだけでは、時代に合わなくなってしまいます。
何を守り、何を変え、時には何を手放すのか。その判断を自分で引き受けること。それが、後継者に求められる覚悟なのだと思います。
安川 政壱
1960年に父が創業した包装資材商社・株式会社ヤスカワの二代目。大学卒業後は取引先の日東電工株式会社で九州全域を担当し、メーカーの立場から営業の経験を積んだのち、1984年に家業へ入社。2000年、創業40周年を機に代表取締役へ就任した。包装・物流関連事業を軸としながら、自身が打ち込んできたゴルフを起点に、ゴルフネット工事やインドアゴルフスタジオの運営といったスポーツ関連事業、ビジネスサポート領域へと事業を広げてきた。事業承継と事業譲渡の両方を経験し、「自分で決める」ことの大切さを後継者に伝えている。